預言者郷里に容れられずの読み方
よげんしゃきょうりにいれられず
預言者郷里に容れられずの意味
このことわざは、優れた才能や見識を持つ人でも、生まれ育った故郷や身近な環境では、その価値を正当に評価されにくいという意味です。
人は身近な相手に対して、過去の印象や先入観にとらわれがちです。幼い頃から知っている人や、日常的に接している人の新たな一面や成長した姿を素直に受け入れることは、意外に難しいものです。特に、その人が何か特別な才能を発揮したり、優れた意見を述べたりしても「あの人がそんなはずはない」と無意識に否定してしまう心理が働きます。
このことわざが使われるのは、身近な人の価値が周囲に認められない状況を客観視する時です。また、自分自身が故郷や身近な環境で正当な評価を得られない経験をした時の心境を表現する際にも用いられます。現代でも、地元では注目されなかった人が他の場所で大成功を収めるという話は珍しくありませんね。
由来・語源
このことわざは、新約聖書のマタイ伝やマルコ伝に記されているイエス・キリストの言葉「預言者は故郷では歓迎されない」が語源とされています。イエスが故郷のナザレで教えを説いた際、幼い頃から知る人々は彼を「大工の息子」としか見ず、その教えを受け入れなかったという出来事から生まれました。
この言葉が日本に伝わったのは、明治時代のキリスト教の布教とともでした。当時の知識人たちが聖書の教えを日本語に翻訳する過程で、この普遍的な人間心理を表す言葉として定着していったのです。
「預言者」とは、神の言葉を預かって人々に伝える者という意味で、単に未来を予言する人ではありません。また「容れられず」の「容れる」は現代語の「入れる」とは異なり、「受け入れる」「認める」という意味の古語です。
興味深いのは、この現象は洋の東西を問わず見られる人間の普遍的な心理だということです。身近な人の才能や価値を認めにくいという傾向は、どの文化圏でも共通して観察される現象なのです。
使用例
- 彼の提案は素晴らしいのに、同じ部署の人たちには預言者郷里に容れられずで全然評価されないんだよね
- 故郷の友人たちは私の仕事の成功を信じてくれないが、まさに預言者郷里に容れられずということだろう
現代的解釈
現代社会では、このことわざの意味がより複雑になっています。SNSの普及により、身近な人の活動や成功が以前より見えやすくなった一方で、かえって素直に評価できない心理も強まっているように感じられます。
特に情報化社会では、地理的な「郷里」の概念が曖昧になりました。物理的な故郷だけでなく、学校のクラスメート、職場の同僚、オンラインコミュニティなど、様々な「身近な集団」が存在します。これらの環境でも同様の現象が起こり、身近な人の才能や成果を認めにくい傾向が見られます。
一方で、現代では個人の多様性や成長への理解も深まっています。転職やキャリアチェンジが当たり前になり、人は変わるものだという認識も広がりました。また、グローバル化により、地元を離れて活躍する機会も増え、「預言者」が「郷里」以外で評価される場が格段に広がっています。
しかし、依然として身近な人への先入観は根強く、特に日本の年功序列的な文化では、若い人や後輩の優れたアイデアが軽視されがちです。現代こそ、この古いことわざが示す人間心理を理解し、身近な人の可能性を素直に認める姿勢が求められているのかもしれません。
AIが聞いたら
私たちの脳は距離によって判断基準を変える不思議な性質を持っている。心理学の「構えレベル理論」によると、遠い対象は抽象的で理想的に、近い対象は具体的で現実的に評価してしまう。
たとえば、隣町の高校生が全国大会で優勝すると「すごい天才だ」と思うが、同じクラスの友達が優勝しても「でもテスト勉強はサボってるよね」と欠点が目につく。物理的距離が近いほど、その人の日常の失敗や弱点が見えてしまうからだ。
実際の研究では、同じ人物の写真でも「遠い国の専門家」として紹介された場合と「近所の人」として紹介された場合で、能力評価が大きく変わることが確認されている。距離が遠いと脳は「きっと立派な人だろう」と想像で補完し、近いと「あの時こんなミスをしていた」と具体的な記憶が邪魔をする。
この現象は現代のSNSでも顕著だ。フォロワー数万人のインフルエンサーは輝いて見えるが、リアルで会うと「意外と普通」と感じる経験は多くの人が持っている。預言者が郷里で軽視されるのは、まさに距離による認知の歪みが生み出す必然的な現象なのだ。
現代人に教えること
このことわざは、私たちに身近な人を見る目を見直すよう教えてくれます。家族、友人、同僚など、日頃接している人たちの新しい一面や成長を、素直に受け入れる心の柔軟性を持つことの大切さを示しています。
特に現代社会では、人は常に学び続け、変化し続けています。昨日まで知らなかった分野で才能を発揮したり、思いがけない洞察を示したりすることは珍しくありません。そんな時、過去の印象にとらわれず、その人の今の姿を正当に評価できるかどうかが問われます。
また、自分自身が身近な環境で理解されない経験をした時も、このことわざは慰めと希望を与えてくれます。今いる場所で認められなくても、それは自分の価値が低いからではなく、人間の心理的な特性によるものかもしれません。別の環境では、きっと正当な評価を得られる可能性があるのです。
大切なのは、お互いを新鮮な目で見続けること。身近な人だからこそ、その成長や変化を一番近くで見守り、応援できる立場にいるのですから。


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