庭訓三月四書大学の意味・由来・使い方|日本のことわざ解説

ことわざ

庭訓三月四書大学の読み方

ていきんさんげつししょだいがく

庭訓三月四書大学の意味

このことわざは、始めても長続きせず、すぐに飽きてしまうことのたとえです。特に、最初は意気込んで何かを始めたものの、三ヶ月程度という短い期間で熱意が冷めてしまい、当初の目標を達成できない状況を指して使われます。

家庭での教育として四書という膨大な学問を学ばせようとしても、最初の「大学」一冊すら終わらないうちに投げ出してしまう様子から、志は高いのに実行が伴わない人間の性質を表現しています。新しいことに挑戦する際の初期の熱意と、それが急速に失われていく様子を、具体的な学習期間と教材名で示すことで、より実感を持って理解できるようになっているのです。

現代でも、新年の抱負や新しい習い事、資格取得の勉強など、意欲的に始めたことがいつの間にか続かなくなる経験は誰にでもあるでしょう。そうした三日坊主ならぬ「三ヶ月坊主」の状態を、このことわざは的確に言い当てています。

由来・語源

このことわざの由来については、明確な文献記録が残されていないようですが、言葉の構成から興味深い推測ができます。

「庭訓」とは家庭での教育や躾を意味する言葉で、古くから子どもの教育において重視されてきました。「四書」は儒教の基本経典である「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称で、江戸時代には武士階級を中心に必須の教養とされていました。その中でも「大学」は四書の筆頭に位置づけられ、学問の入門書として最初に学ぶべきものとされていたのです。

このことわざは、おそらく江戸時代の教育現場から生まれたと考えられています。当時、子どもに学問をさせようと「庭訓」つまり家庭教育として四書の学習を始めさせても、わずか三ヶ月ほどで飽きてしまい、最初の「大学」すら修めることができない様子を表現したものでしょう。

儒学が重んじられた時代、四書を学ぶことは立身出世への第一歩でした。しかし、どれほど立派な志を持って始めても、継続することの難しさは今も昔も変わりません。この言葉には、人間の飽きっぽさに対する苦笑いと、それでも学び続けることの大切さを説く教訓が込められていると考えられています。

豆知識

このことわざに登場する「大学」は、わずか1753文字という短い経典です。四書の中で最も短く、初学者向けとされていたにもかかわらず、それすら修められないという点に、このことわざの皮肉な味わいがあります。

江戸時代の寺子屋では、まず「大学」の冒頭「大学之道在明明徳」から学び始めるのが一般的でした。つまり、学問の入り口の入り口で挫折してしまう様子を、このことわざは描いているのです。

使用例

  • 息子は英会話教室に通い始めたが、まさに庭訓三月四書大学で、もう行きたがらない
  • ジムの会員証を見るたびに、庭訓三月四書大学の自分が情けなくなる

普遍的知恵

人間には新しいことを始める時の高揚感と、それを継続する時の退屈さという、二つの相反する感情が存在します。このことわざが何百年も語り継がれてきたのは、まさにこの普遍的な人間の性質を見事に捉えているからでしょう。

始める時、私たちは未来の理想の自分を思い描きます。学問を修めた自分、技術を身につけた自分、目標を達成した自分。その輝かしいイメージが、最初の一歩を踏み出す原動力になります。しかし、実際の学びや修練の過程は、地味で反復的で、時に苦痛を伴うものです。理想と現実のギャップに直面した時、人は簡単に心が折れてしまうのです。

興味深いのは、このことわざが「三日」ではなく「三月」という、ある程度の期間を示している点です。これは、人間が本当に何かを身につけようとする時、最初の数日や数週間は新鮮さで乗り切れることを示唆しています。しかし、三ヶ月という期間は、新鮮さが失われ、本当の実力が問われ始める時期なのです。

先人たちは、人間の意志の弱さを責めるのではなく、むしろそれを当然のこととして受け止めていました。だからこそ、このことわざには非難よりも、自戒と共感が込められています。完璧な人間などいない。誰もが飽きっぽく、弱い存在である。その前提に立った上で、それでもなお続けることの価値を、このことわざは静かに問いかけているのです。

AIが聞いたら

人間の脳は生まれてから3歳までの間に、神経細胞同士のつながり(シナプス)が爆発的に増えます。この時期のシナプス密度は大人の約2倍にも達し、まさに脳が「配線工事」をしている状態です。興味深いのは、この配線は使われた回路だけが残り、使われなかった回路は削除されていくという点です。つまり、3歳までに何を経験したかが、文字通り脳の物理的構造を決定してしまうのです。

特に注目すべきは、言語の音韻認識能力です。生後6ヶ月の赤ちゃんは世界中のあらゆる言語の音を聞き分けられますが、1歳を過ぎると母語にない音の区別ができなくなります。日本人が英語のLとRを聞き分けにくいのは、まさにこの臨界期に英語環境がなかったためです。脳は効率化のため、使わない回路を容赦なく切り捨てるのです。

さらに驚くのは、愛着形成や感情調整といった社会性の基盤も、この時期の養育者との関係で決まることです。3歳までに安定した関係を経験した子どもは、ストレスホルモンを調整する脳の部位が適切に発達します。このことわざが四書大学より先に家庭教育を置いたのは、知識以前に脳の土台そのものが形成される時期を見抜いていたからでしょう。経験則が科学的事実と一致する、まさに人間観察の鋭さを示す事例です。

現代人に教えること

このことわざが現代の私たちに教えてくれるのは、飽きっぽさを恥じる必要はないということです。むしろ、それは人間として自然な性質なのだと認めることから、本当の成長が始まります。

大切なのは、完璧に続けることではなく、やめてもまた始める勇気を持つことです。三ヶ月で飽きたなら、また新しい気持ちで始めればいい。何度も挫折を繰り返しながら、少しずつ前に進む。そんな不格好な歩みこそが、実は最も確実な成長の道なのかもしれません。

現代社会は「継続は力なり」と完璧な継続を求めがちですが、このことわざは別の視点を与えてくれます。人間は飽きる生き物だという前提に立てば、最初から無理のない計画を立てる知恵が生まれます。壮大な目標よりも、小さな達成を積み重ねる方が、結果的に遠くまで行けることもあるのです。

あなたが今、何かを始めて挫折しそうになっているなら、それは普通のことです。先人たちも同じ道を通ってきました。大切なのは、自分の飽きっぽさを理解し、それでも前に進もうとする姿勢なのです。

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