去り跡へは往くとも死に跡へは行くなの読み方
さりあとへはゆくともしにあとへはゆくな
去り跡へは往くとも死に跡へは行くなの意味
このことわざは、人が去った後を追うのは良いが、死んだ人の後を追ってはならないという教えです。具体的には、誰かが辞めた仕事を引き継ぐことや、引っ越した人の後に同じ場所へ移り住むことは問題ありませんが、愛する人や尊敬する人が亡くなったからといって、自分も命を絶つようなことをしてはいけないという戒めを表しています。
この表現を使う理由は、生と死の間に明確な一線を引くためです。生きている人の後を追うことは、新たな可能性や発展につながりますが、死者の後を追うことは、自らの命を無駄にする行為だからです。現代では、大切な人を失った悲しみから自殺を考えてしまう人や、過度な喪失感に囚われる人に対して、生き続けることの大切さを伝える言葉として理解されています。どんなに辛くても、生きている限り希望があるという前向きなメッセージが込められているのです。
由来・語源
このことわざの明確な文献上の初出や由来については、はっきりとした記録が残されていないようです。しかし、言葉の構造から、その成り立ちを推測することができます。
「去り跡」と「死に跡」という対比的な表現が、このことわざの核心です。「去り跡」とは、誰かが立ち去った後、転居した後、あるいは職を辞した後などを指します。一方「死に跡」は、文字通り死者の後を追うことを意味しています。
この対比には、日本の伝統的な生死観が反映されていると考えられます。人が生きて去った場所には、まだ可能性や希望が残されています。その人の後を継ぐことで、新しい展開が生まれる余地があるのです。しかし、死者の後を追うことは、生きる者が自らの命を絶つことを意味します。
江戸時代には、主君や配偶者の死に際して殉死する風習が一部に存在しました。しかし、こうした行為は次第に否定されるようになり、生者は生き続けることに価値があるという考え方が広まっていきました。このことわざは、そうした時代背景の中で、生命の尊さを説く教訓として人々の間に定着していったのではないかと推測されます。言葉そのものが持つ明快な対比構造が、人々の心に深く刻まれたのでしょう。
使用例
- 先輩が辞めた後の部署を任されたけど、去り跡へは往くとも死に跡へは行くなというから、しっかり引き継いで頑張ろう
- 夫を亡くして後を追いたくなる気持ちもわかるが、去り跡へは往くとも死に跡へは行くなと言うように、あなたには生きる価値がある
普遍的知恵
このことわざが語り継がれてきた背景には、人間の深い悲しみと、それでも生きようとする力の葛藤があります。愛する人や尊敬する人を失ったとき、人は計り知れない喪失感に襲われます。その痛みがあまりに大きいとき、「自分も後を追いたい」という衝動に駆られることは、人間として自然な感情なのかもしれません。
しかし、先人たちはこの感情の危うさを見抜いていました。悲しみの渦中にいるとき、人は視野が狭くなり、死が唯一の解決策に見えてしまうことがあります。だからこそ、このことわざは「去り跡」と「死に跡」を明確に区別することで、生きることと死ぬことの間に揺るぎない境界線を引いたのです。
人間には、誰かの意志や仕事を引き継ぐという美しい能力があります。それは生者同士だからこそできることです。一方で、死者の後を追うことは、その人が生きた意味さえも否定してしまう行為になりかねません。亡くなった人は、残された人に死んでほしいとは決して思わないでしょう。
このことわざは、悲しみの深さを認めながらも、生き続けることこそが故人への最大の敬意であり、自分自身への責任でもあるという、人間の叡智を伝えているのです。
AIが聞いたら
誰かが去った場所には、その人の行動パターンや判断基準という「情報」が残っています。たとえば前任者が辞めた職場なら、引き継ぎ資料や同僚の記憶から「なぜその判断をしたのか」を推測できます。つまり、情報の流れが途切れていないのです。ところが死んだ人の後を追う場合、その人が持っていた未来の情報、つまり「これから何を経験し、どう判断するはずだったか」という情報は完全に消滅します。
情報理論では、観測できる情報量が多いほど正確な予測が可能になります。去った人の跡には過去のデータが蓄積されているため、そこから学習して自分の戦略を立てられます。一方、死は情報のエントロピーが最大化した状態、つまり「もうこれ以上何も引き出せない」終点です。熱力学の法則と同じで、一度拡散した情報は元に戻せません。
さらに興味深いのは、人間の意思決定は本質的に「情報の非対称性」との戦いだという点です。去り跡を選ぶ人は、不完全でも存在する情報から確率的に有利な選択をしています。死に跡を選ぶ人は、情報ゼロの状態で賭けに出ているわけです。このことわざは、人生における選択を「情報量の多寡で判断せよ」と教えているのです。
現代人に教えること
このことわざが現代のあなたに教えてくれるのは、悲しみと向き合いながらも、生きる選択をする勇気の大切さです。現代社会では、大切な人を失う経験だけでなく、夢の挫折や人間関係の喪失など、さまざまな形の「喪失」に直面します。そんなとき、このことわざは「引き継ぐべきもの」と「手放すべきもの」を見極める指針となります。
誰かの意志や仕事、想いを引き継ぐことは、その人が生きた証を未来につなぐ行為です。これは前向きな継承であり、あなた自身の成長にもつながります。しかし、自分を犠牲にしてまで誰かの人生を追いかける必要はありません。特に、過度な自己犠牲や自己否定は、誰のためにもならないのです。
現代を生きるあなたには、自分の人生を大切にする権利があります。どんなに辛い別れがあっても、あなたの人生はあなた自身のものです。悲しみを抱えながらも一歩ずつ前に進むこと、それこそが生きている者の特権であり、責任でもあります。このことわざは、あなたに生き続ける許可を与えてくれているのです。


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