親の十七子は知らぬの読み方
おやのじゅうしちこはしらぬ
親の十七子は知らぬの意味
このことわざは、親は子供のことを理解していると思いがちだが、実際には知らないことが多いという意味です。
親は子供と長い時間を共に過ごし、育ててきた自負から、我が子の考えや行動を全て把握していると信じがちです。しかし実際には、子供には親の知らない友人関係があり、親に言えない悩みがあり、親が想像もしない夢や希望を抱いています。
このことわざが使われるのは、親が子供を決めつけて語る場面や、子供の意外な一面が明らかになった時です。「うちの子に限ってそんなことはない」と断言する親に対して、「親の十七子は知らぬというからね」と諭すような使い方をします。子供は親が思うほど単純ではなく、一人の独立した人間として、親の知らない豊かな内面世界を持っているのだという現実を、この言葉は教えてくれるのです。
由来・語源
このことわざの由来について、明確な文献上の記録は残されていないようですが、言葉の構成から興味深い考察ができます。
「親の十七」という表現が鍵となります。十七歳といえば、江戸時代には元服を終え、大人の仲間入りをする年齢でした。親にとって、自分が十七歳だった頃の記憶は特別なものだったでしょう。青春の真っ只中、恋に悩み、将来に不安を抱き、親に隠し事もたくさんあった時期です。
ところが不思議なことに、人は親になると、自分自身のそんな十七歳の経験を忘れてしまうのです。自分がどれだけ親に秘密を持っていたか、どれだけ親の知らない世界で生きていたかを忘れ、我が子のことは全て分かっていると思い込んでしまいます。
このことわざは、そんな人間の矛盾を鋭く突いています。「親の十七」とは、親自身が経験した十七歳のこと。その時の自分を思い出せば、子供にも親の知らない世界があることは当然だと分かるはずなのに、それを忘れてしまう。この言葉には、そうした親の思い込みへの戒めと、同時に人間らしい愛おしさも込められていると考えられています。
使用例
- 息子が実は小説を書いていたと知って驚いたよ、親の十七子は知らぬとはこのことだね
- 娘のことは何でも分かっていると思っていたけれど、親の十七子は知らぬものだと痛感した
普遍的知恵
このことわざが語る真理は、人間の認識の限界と、愛するがゆえの盲点についてです。
親子ほど近い関係はありません。同じ屋根の下で暮らし、毎日顔を合わせ、子供の成長を見守ってきた親にとって、我が子は最もよく知る存在のはずです。しかし、だからこそ落とし穴があるのです。近すぎるがゆえに見えないもの、知っているつもりになってしまう危険性があるのです。
人間には、自分の経験や価値観を通してしか他者を理解できないという根本的な限界があります。親は自分の人生経験から子供を理解しようとしますが、子供は親とは違う時代を、違う環境で、違う感性で生きています。親が十七歳だった頃と、子供が十七歳の今では、世界そのものが違うのです。
さらに深い真理があります。それは、愛するがゆえに見えなくなるものがあるということです。親は子供を愛するからこそ、「こうあってほしい」という願いを持ちます。その願いが、ありのままの子供の姿を曇らせてしまうのです。
このことわざが長く語り継がれてきたのは、親子という最も親密な関係においてさえ、いや親密だからこそ、完全な理解は不可能だという人間存在の本質を突いているからでしょう。
AIが聞いたら
親が子どもの若い頃を知らないという現象は、情報理論で言う「観測者のパラドックス」そのものです。親は子どもと最も近い距離にいるのに、なぜ内面を把握できないのか。これは物理的な距離の問題ではなく、情報の流れ方に原因があります。
情報理論では、システムの内部にいる観測者ほど、実は全体像を把握しにくいという原理があります。たとえば森の中にいる人は、森全体の形を見ることができません。親も同じで、子どもとの関係性の「中」にいるため、子どもが外の世界でどう振る舞っているか、何を考えているかという情報にアクセスできないのです。さらに重要なのは、親が観測しようとする行為そのものが、子どもの行動を変えてしまうこと。子どもは親の前では「親に見せる自分」を演じます。つまり観測装置(親)を設置した瞬間に、測定対象(子ども)の状態が変わってしまう。これは量子力学の観測者効果と同じ構造です。
この情報の非対称性は一方向ではありません。子どもも親の十七歳を知りません。各世代は互いに、相手の内面という「ブラックボックス」を抱えたまま関係を築いている。これは人間関係が本質的に「不完全情報ゲーム」であることを示しています。完全に理解し合えないからこそ、想像力と思いやりが必要になるのです。
現代人に教えること
このことわざが現代の私たちに教えてくれるのは、謙虚さの大切さです。
あなたが親であるなら、子供のことを「分かっている」と思い込む前に、一度立ち止まってみてください。子供は日々成長し、変化しています。昨日まで知っていた子供と、今日の子供は同じではありません。「知っている」という思い込みを手放し、「知らないかもしれない」という謙虚さを持つことで、初めて子供の本当の姿が見えてくるのです。
そしてこの教訓は、親子関係だけに留まりません。職場の部下、長年連れ添った配偶者、親しい友人。私たちは身近な人ほど「分かっている」と思い込みがちです。しかし、どんなに親しい相手でも、その人の内面の全てを知ることはできません。
大切なのは、相手への好奇心を失わないことです。「この人はこういう人だ」と決めつけず、常に新しい発見があるかもしれないという期待を持ち続けること。それが、真の理解への第一歩なのです。知らないことを認める勇気こそが、より深い関係を築く鍵となるでしょう。


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