泣いて馬謖を斬るの読み方
ないてばしょくをきる
泣いて馬謖を斬るの意味
このことわざは、私情や個人的な感情を抑えて、組織や社会全体のために厳正な判断を下すことを意味します。
具体的には、上に立つ者が部下や身内に対して愛情や親しみを感じていても、規則や正義を優先して厳しい処分を下さなければならない状況で使われます。この表現を使う理由は、そうした判断がいかに辛く困難であるかを強調するためです。単に冷酷な処分ではなく、断腸の思いで下す決断だからこそ、この言葉に重みがあるのです。
現代でも、経営者が優秀だが規則違反をした社員を解雇する時や、監督が才能ある選手をチームの和を乱したために外す時など、リーダーシップの本質を表す場面で使われます。大切なのは、個人的な好き嫌いではなく、より大きな目的や正義のための判断だということです。
由来・語源
このことわざは、中国の歴史書『三国志』に記された有名な故事に由来しています。三国時代の蜀の丞相・諸葛亮(諸葛孔明)が、愛弟子である馬謖を軍法に従って処刑した出来事が元になっているんですね。
馬謖は諸葛亮が深く信頼していた部下でした。しかし、街亭の戦いで諸葛亮の戦略的指示に従わず、独断で山上に陣を敷いたため、魏軍に水源を断たれて大敗してしまったのです。この敗戦は蜀軍全体の戦略に大きな打撃を与えました。
諸葛亮は馬謖への個人的な愛情と、軍の規律を保つ責任の間で深く苦悩しました。しかし、軍法は絶対であり、私情を挟むことは軍全体の統制を乱すことになります。そこで諸葛亮は涙を流しながらも、愛する弟子を斬首刑に処したのです。
この故事が日本に伝わり、「私情を捨てて公正な判断を下す」という意味のことわざとして定着しました。中国では「揮涙斬馬謖」と表現され、リーダーシップの厳しさを象徴する故事として今でも語り継がれています。
使用例
- 部長は長年可愛がってきた部下の不正を知り、泣いて馬謖を斬る思いで処分を決めた
- 監督は主力選手の素行問題に泣いて馬謖を斬る覚悟で臨んだ
現代的解釈
現代社会では、このことわざの意味がより複雑になっています。情報化社会では組織の透明性が求められ、リーダーの判断は瞬時に世界中に拡散されます。そのため、「泣いて馬謖を斬る」ような厳正な判断は、以前にも増して重要になっているのです。
企業のコンプライアンス問題では、経営陣が身内の不正を隠蔽せず、痛みを伴っても適切に処分することが組織の信頼を守る唯一の方法となっています。SNSで炎上した社員への対応や、パワハラを行った幹部への処分など、現代のリーダーは常にこの判断を迫られているでしょう。
一方で、現代では多様性や人権意識の高まりにより、画一的な「斬る」判断よりも、再教育や配置転換などの選択肢も重視されています。また、組織の論理だけでなく、個人の事情や背景を考慮した人間的な判断も求められるようになりました。
テクノロジーの発達により、AIが人事判断を支援する時代も到来しています。しかし、最終的な決断には人間の感情と責任が伴います。データに基づく客観的判断と、人間らしい温かさのバランスを取ることが、現代のリーダーに求められる新しい課題なのかもしれません。
AIが聞いたら
諸葛亮の馬謖処刑は、感情的な苦渋の決断ではなく、極めて冷静な政治計算だった可能性が高い。なぜなら、当時の諸葛亮は劉備の死後、幼い劉禅を支える摂政として、常に正統性への疑問と権力基盤の不安定さに直面していたからだ。
街亭の戦いで馬謖が命令に背いて大敗した時、諸葛亮が直面したのは単なる軍事的失敗ではない。部下の独断専行を許せば「諸葛亮の統制力不足」として政敵に攻撃材料を与え、さらに他の将軍たちも命令軽視を始める危険性があった。特に、魏延のような古参の将軍たちは元々諸葛亮の権威に疑問を持っており、ここで甘い処分をすれば統制が完全に崩壊する恐れがあった。
興味深いのは、諸葛亮が馬謖処刑と同時に自らも「丞相」から「右将軍」に降格したことだ。これは責任を取る美談ではなく、むしろ「私は公正無私である」というイメージを演出し、処刑への批判を封じる巧妙な政治的演技だった可能性がある。実際、降格は形式的なもので、実権は何も失っていない。
現代の組織心理学でも、リーダーが厳罰と自己犠牲を組み合わせることで、集団の結束と権威への服従を強化できることが知られている。諸葛亮の「涙」は、冷徹な権力維持戦略を人間味のある物語に変換する、計算された演出だったのかもしれない。
現代人に教えること
このことわざが現代人に教えてくれるのは、真のリーダーシップとは何かということです。リーダーになるということは、時として愛する人を傷つけてでも正しい道を選ぶ覚悟を持つことなのです。
現代社会では、誰もが何らかの形でリーダーシップを発揮する場面があります。家庭では親として、職場ではチームの一員として、地域では市民として。そんな時、目先の人間関係を優先するか、長期的な利益や正義を選ぶか。この選択に直面することは決して珍しいことではありません。
大切なのは、厳しい判断を下す時の心の持ち方です。感情を完全に排除するのではなく、痛みを感じながらも責任を果たす。この「泣きながら」という部分にこそ、人間らしいリーダーシップの本質があるのです。
あなたも人生の中で、誰かを失望させてでも正しいことをしなければならない瞬間が訪れるかもしれません。その時は、諸葛亮の涙を思い出してください。痛みを感じることは弱さではなく、あなたが人間らしい温かい心を持っている証拠なのですから。


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