家鶏を賤しみて野雉を愛すの意味・由来・使い方|日本のことわざ解説

ことわざ

家鶏を賤しみて野雉を愛すの読み方

かけいをいやしみてやちをあいす

家鶏を賤しみて野雉を愛すの意味

このことわざは、身近にあるものの価値を認めず軽んじて、遠くにある珍しいものばかりを好むという人間の傾向を戒めるものです。いつも側にいる人や日常的に使っているものは、その存在が当たり前になりすぎて、本来持っている価値や大切さに気づきにくくなります。一方で、手に入りにくいものや遠くにあるものは、実際の価値以上に魅力的に見えてしまうのです。

このことわざが使われるのは、目の前にある確かな価値を見失い、遠くの不確かなものに心を奪われている人を諭す場面です。たとえば、家族や身近な友人の優しさに気づかず、華やかに見える遠い世界ばかりに憧れている時などに用いられます。現代でも、この人間心理は変わりません。SNSで他人の生活が輝いて見えたり、隣の芝生が青く見えたりする心理と本質的に同じなのです。

由来・語源

このことわざは、中国の古典に由来すると考えられています。「家鶏」とは家で飼われている鶏のことで、「野雉」は野生の雉を指します。古代中国では、雉は美しい羽を持つ高貴な鳥として珍重されていました。

言葉の構成を見ると、「賤しみて」という表現が重要です。「賤しむ」とは、価値が低いとみなして軽んじることを意味します。一方で「愛す」は大切にする、好むという意味です。この対比が、このことわざの核心を成しています。

家で飼われている鶏は、毎日卵を産み、肉も食用になる実用的な存在です。しかし、いつでも見られる身近な存在であるがゆえに、その価値が当たり前のものとして見過ごされがちです。対して野生の雉は、美しい羽を持ち、なかなか見ることができない珍しい鳥です。その希少性が、人々の憧れを呼び起こすのです。

この対比は、人間の心理を鋭く突いています。手に入りにくいもの、遠くにあるものほど魅力的に見え、身近にある確実な価値を見落としてしまう。そんな人間の性質を、家鶏と野雉という具体的なイメージで表現したことわざなのです。

豆知識

雉は日本の国鳥に指定されています。古くから日本人に親しまれてきた鳥ですが、野生の雉を実際に見かける機会は多くありません。その美しい羽と警戒心の強さから、まさに「珍しく価値あるもの」の象徴として、このことわざに登場するにふさわしい存在だったのでしょう。

鶏は人類が最も古くから家畜化した鳥の一つで、約8000年前から飼育されていたと言われています。卵と肉の両方を提供してくれる実用的な存在として、世界中で重宝されてきました。しかしその「ありふれた存在」であることが、かえって軽視される原因になるという皮肉を、このことわざは教えてくれています。

使用例

  • いつも支えてくれる家族をないがしろにして、遠くの有名人ばかり追いかけるなんて、まさに家鶏を賤しみて野雉を愛すだね
  • 地元の良い店を素通りして、わざわざ遠くの話題の店に行くのは、家鶏を賤しみて野雉を愛すようなものだ

普遍的知恵

このことわざが示す人間の本質は、驚くほど深いものがあります。なぜ私たちは、身近なものの価値を見失ってしまうのでしょうか。

それは、人間が「慣れ」という感覚を持つ生き物だからです。どんなに素晴らしいものでも、毎日接していれば、その存在が当たり前になります。最初は感謝していた優しさも、繰り返されるうちに「そういうもの」として受け流すようになる。この心理メカニズムは、生存のために必要だった面もあります。日常的な刺激に慣れることで、新しい危険や機会により敏感になれるからです。

しかし同時に、この「慣れ」は私たちから大切なものを奪います。確実に手元にあるものの価値を見失い、不確かな遠くのものに心を奪われる。その結果、本当に大切なものを失ってから、初めてその価値に気づくという悲劇が繰り返されてきました。

さらに興味深いのは、「遠くのもの」が魅力的に見える心理です。手に入らないものは、想像の中で完璧に美化されます。現実の欠点が見えないからこそ、理想化できるのです。一方、身近なものは、その欠点まではっきり見えてしまいます。

このことわざが何千年も語り継がれてきたのは、この人間の性質が時代を超えて変わらないからでしょう。先人たちは、この危うい心の傾向を見抜き、警鐘を鳴らし続けてきたのです。

AIが聞いたら

行動経済学の実験で興味深いデータがあります。人に「今すぐ100ドルもらう」か「1週間後に110ドルもらう」かを選ばせると、多くの人が今すぐ100ドルを選びます。ところが同じ人に「1年後に100ドルもらう」か「1年1週間後に110ドルもらう」かを聞くと、110ドルを選ぶのです。客観的な利率は同じなのに、判断が変わる。これは「今持っているもの」を参照点として価値を測るからです。

このことわざの家鶏と野雉も同じ構造です。仮に両方とも市場価値が同じ1000円だとしましょう。しかし人間の脳は絶対値で判断しません。家鶏は「既に所有している状態」が参照点になるため、そこから得られる価値はゼロと感じます。一方、野雉は「まだ持っていない状態」が参照点なので、手に入れば1000円分の獲得の喜びを感じるのです。

さらにプロスペクト理論では、人間は利益よりも損失に2倍敏感だと証明されています。つまり家鶏を手放す痛みは本来500円程度のはずが、所有効果で1000円以上に感じる。なのに日常的に持っているものは「損失していない状態」が当たり前になり、価値を感じなくなる。この矛盾した心理メカニズムを、昔の人は鶏と雉という対比で見抜いていたわけです。参照点が変われば同じものの価値が変わる。人間の不合理性の本質を突いています。

現代人に教えること

このことわざが現代のあなたに教えてくれるのは、「今ここにあるもの」を見つめ直す大切さです。SNSで他人の華やかな生活を見て羨んだり、手に入らないものばかりに憧れたりする前に、立ち止まってみてください。あなたの周りには、すでに多くの宝物があるはずです。

毎日顔を合わせる家族、いつも話を聞いてくれる友人、当たり前のように使っている健康な体。これらは「いつでもある」からこそ、その価値を忘れがちです。でも、失ってから気づくのでは遅いのです。

実践的な方法として、週に一度でも「感謝の棚卸し」をしてみてはどうでしょうか。身近な人や物事の良い面を、意識的に探してみるのです。すると、見慣れた風景の中に、新しい輝きが見えてくるはずです。

遠くの珍しいものを求める心を否定する必要はありません。向上心や好奇心は素晴らしいものです。ただ、その前に足元を見つめること。確かな土台があってこそ、遠くへも安心して手を伸ばせるのです。身近なものの価値を知る人こそが、本当の豊かさを手にできるのではないでしょうか。

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