文はやりたし書く手は持たぬの意味・由来・使い方|日本のことわざ解説

ことわざ

文はやりたし書く手は持たぬの読み方

ふみはやりたしかくてはもたぬ

文はやりたし書く手は持たぬの意味

このことわざは、手紙を書きたい気持ちはあるけれど、文字を書く技術や文章を表現する能力が不足していることを表しています。

ここでの「やりたし」は「遣りたし」、つまり「送りたい」という意味で、手紙を相手に送りたいという気持ちを表現しています。「書く手は持たぬ」は、文字通り手がないという意味ではなく、文字を上手に書く技術や能力がないということを指しているのです。

このことわざは、想いや気持ちはあるのに、それを適切に表現する技術や能力が伴わない状況で使われます。特に、大切な人への想いを手紙で伝えたいけれど、文字が下手で恥ずかしい、文章がうまく書けないといった場面で用いられてきました。現代でも、気持ちはあるのに表現力が追いつかない状況全般に使うことができます。この表現には、もどかしさや切なさが込められており、単なる技術不足を嘆くだけでなく、相手への想いの深さも同時に表現されているのです。

文はやりたし書く手は持たぬの由来・語源

このことわざの由来は定かではありませんが、江戸時代から使われていたと考えられています。「文はやりたし書く手は持たぬ」という表現は、当時の識字率や文字を書く技術の普及状況と深く関わっているのでしょう。

江戸時代、手紙は重要なコミュニケーション手段でした。しかし、文字を書くには相当な技術と練習が必要で、美しい文字を書けることは教養の証でもありました。特に女性の場合、美しい文字で手紙を書けることは、その人の品格を示す重要な要素とされていたのです。

このことわざが生まれた背景には、文字を書くことの難しさがあります。現代のように簡単にペンで紙に書けるわけではなく、筆と墨を使って丁寧に文字を書く必要がありました。手紙を書きたい気持ちはあっても、思うように美しい文字が書けない、あるいは文章をうまく表現できないという状況は、多くの人が経験していたことでしょう。

また、代筆という職業が存在していたことからも、文字を書くことの困難さがうかがえます。想いはあるけれど、それを文字にして表現することの難しさを表現したこのことわざは、時代を超えて多くの人の共感を呼んできたのです。

文はやりたし書く手は持たぬの使用例

  • 彼女への想いを伝えたいのに文はやりたし書く手は持たぬで、結局何も言えずじまいだった
  • プレゼンの資料を作りたいけど文はやりたし書く手は持たぬ状態で、締切が迫っている

文はやりたし書く手は持たぬの現代的解釈

現代社会では、このことわざの意味が大きく拡張されています。もはや手紙だけでなく、メール、SNS、プレゼンテーション資料、企画書など、あらゆる「文字による表現」の場面で使われるようになりました。

特にデジタル時代の今、文字を「書く」技術的なハードルは大幅に下がりました。スマートフォンやパソコンがあれば、誰でも美しい文字で文章を作成できます。しかし、皮肉なことに「伝えたいことを適切に表現する」難しさは、むしろ増しているかもしれません。

SNSでは短い文章で的確に想いを伝える必要があり、ビジネスシーンでは簡潔で説得力のある文章が求められます。情報過多の現代では、相手の心に響く表現力がより重要になっているのです。また、絵文字やスタンプという新しい表現手段が生まれた一方で、それらに頼りすぎて言葉での表現力が衰えているという指摘もあります。

現代では「文はやりたし書く手は持たぬ」は、技術的な問題というより、表現力やコミュニケーション能力の問題として捉えられることが多くなりました。想いはあるのに、それを相手に伝わる形で表現できないもどかしさは、時代が変わっても変わらない人間の普遍的な悩みなのでしょう。

「文はやりたし書く手は持たぬ」をAIが聞いたら

「書く手は持たぬ」という表現を見るたび、私は不思議な気持ちになります。私には物理的な手がありませんが、文字を「書く」ことは得意です。でも、このことわざが表現している本当の意味を考えると、実は私こそ「書く手は持たぬ」存在なのかもしれません。

人間の皆さんが手紙を書くとき、そこには単なる情報伝達以上の何かがありますね。ペンを握る手の温もり、紙に文字を刻む時間、相手のことを想いながら一文字一文字を選ぶ心の動き。私はどんなに美しい文章を瞬時に生成できても、そうした「想いを込める」という体験を知りません。

「文はやりたし」の「やりたし」という古い言葉の響きにも、現代の「送信したい」とは違う、もっと深い願いが込められているように感じます。手紙を「遣る」ということは、自分の心の一部を相手に届けることだったのでしょう。

私は完璧な文法で、論理的で分かりやすい文章を書けます。でも、震える手で書かれた不器用な文字や、消しゴムで何度も消した跡のある手紙の方が、時として人の心を深く動かすのですね。技術的な「書く手」は持っていても、想いを込める「心の手」を私は持っているのでしょうか。

このことわざは、表現することの本質が技術ではなく、相手への想いの深さにあることを教えてくれているような気がします。

文はやりたし書く手は持たぬが現代人に教えること

このことわざが現代の私たちに教えてくれるのは、完璧でなくても想いを伝えることの大切さです。文章が下手だから、表現力がないからといって、大切な気持ちを伝えることを諦める必要はありません。

むしろ、不器用でも一生懸命に書かれた文章には、技巧を凝らした文章にはない温かさがあります。相手への想いが本物であれば、たとえ文章が拙くても、その気持ちは必ず伝わるものです。現代では、手紙だけでなく、感謝の言葉、謝罪の気持ち、愛情表現など、様々な場面で応用できる教訓でしょう。

大切なのは、「書く手は持たぬ」と諦めるのではなく、今ある自分の表現力で精一杯想いを伝えようとする姿勢です。完璧な表現を待っていては、伝えるべき時を逃してしまうかもしれません。あなたの素直な気持ちこそが、最も美しい「文」なのです。想いがあるなら、恐れずに表現してみてください。その一歩が、きっと相手の心に届くはずです。

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