罪の疑わしきは惟れ軽くし、功の疑わしきは惟れ重くすの意味・由来・使い方|日本のことわざ解説

ことわざ

罪の疑わしきは惟れ軽くし、功の疑わしきは惟れ重くすの読み方

つみのうたがわしきはこれをかろくし、こうのうたがわしきはこれをおもくす

罪の疑わしきは惟れ軽くし、功の疑わしきは惟れ重くすの意味

このことわざは、人を評価する立場にある者の心構えを示しています。罪や過ちが疑わしい場合には、確証がない以上は軽く処すべきであり、逆に功績や善行が疑わしい場合には、積極的に評価して重く扱うべきだという教えです。

これは「疑わしきは罰せず」という近代法の原則にも通じる考え方ですが、さらに一歩進んで、功績については疑わしくても認めるという積極的な姿勢を説いています。人を裁く場面では厳しく慎重に、人を褒める場面では寛大に温かくという、バランスの取れた判断基準を示しているのです。

現代では、上司が部下を評価する場面、教師が生徒を指導する場面、あるいは親が子どもと接する場面など、あらゆる人間関係において応用できる知恵です。人の欠点を責めるときは証拠を求め、長所を認めるときは疑いを持たないという姿勢が、信頼関係を築く基盤となるのです。

由来・語源

このことわざは、中国の古典に由来すると考えられています。特に儒教思想における統治者の心得として語られてきた教えの影響を受けているという説が有力です。

「惟れ」という言葉は古語で「これを」という意味を持ち、格調高い表現として用いられています。この言い回しから、このことわざが単なる庶民の知恵というより、為政者や指導的立場にある人々に向けた教訓として伝えられてきたことが推測されます。

罪と功績という対照的な概念を並べて論じる形式は、中国の古典文学によく見られる修辞技法です。人を裁く立場にある者は、罪を問うときには慎重に、しかし功績を認めるときには寛大であるべきだという、統治の理想が込められていると考えられています。

日本には漢籍を通じて伝わり、武家社会においても重視された教えだったようです。人の上に立つ者の心構えとして、江戸時代の藩校などでも教えられていた可能性があります。疑わしい場合にどう判断するかという、人間の公平性と寛容さが試される場面での指針として、長く語り継がれてきたことわざなのです。

使用例

  • 部下のミスは証拠が不十分なら追及せず、良い成果は積極的に評価する、罪の疑わしきは惟れ軽くし功の疑わしきは惟れ重くすの精神で接している
  • 子どもの失敗には寛容に、頑張りは大げさなくらい褒めてあげる、罪の疑わしきは惟れ軽くし功の疑わしきは惟れ重くすという親の姿勢が大切だ

普遍的知恵

このことわざが示す普遍的な知恵は、人間社会における評価の非対称性の重要性です。人は誰しも、責められることには敏感で、褒められることには鈍感になりがちです。だからこそ、罪を問うときには慎重に、功績を認めるときには寛大にという、意図的な偏りが必要なのです。

人間の心理には、ネガティブな情報に強く反応し、ポジティブな情報を軽視してしまう傾向があります。一度でも不当に責められた経験は、長く心に残り、信頼関係を深く傷つけます。一方で、功績を認められることは、人の心に希望の種を蒔き、さらなる成長への意欲を育てます。

このことわざが長く語り継がれてきたのは、人を導く立場にある者が陥りやすい過ちを戒めているからでしょう。権力を持つ者は、つい厳しく裁くことで自分の威厳を示そうとしがちです。しかし真の指導者とは、罰することに慎重で、褒めることに積極的な人なのです。

疑わしい状況でどちらに傾くかという選択は、その人の人間性を映し出します。罪を軽く、功を重くという姿勢は、人間への基本的な信頼と希望を表しています。先人たちは、社会を健全に保つには、この温かな偏りこそが不可欠だと見抜いていたのです。

AIが聞いたら

統計学には「第一種の誤り」と「第二種の誤り」という概念があります。第一種は「実際には無実なのに有罪と判断する誤り」、第二種は「実際には有罪なのに無罪と判断する誤り」です。この格言が驚くべきなのは、この二つの誤りのコストが等しくないと見抜いていた点です。

たとえば、がん検診を考えてみましょう。健康な人を「がんの疑いあり」と誤診する偽陽性と、がん患者を「問題なし」と見逃す偽陰性、どちらも避けたい誤りです。しかし医療現場では偽陰性のコストの方が圧倒的に高い。命に関わるからです。だから検査の基準値は「疑わしきは要精密検査」という方向に設定されます。

ところがこの格言は逆のケースを示しています。罪を疑うときは軽く判断しろと言う。つまり「無実の人を罰するコスト」の方が「犯罪者を逃すコスト」より高いと主張しているのです。現代の刑事裁判で「疑わしきは被告人の利益に」という原則がありますが、これはまさに第一種の誤りを徹底的に避ける設計です。

AIの判断システムでも同じジレンマがあります。スパムメール判定で、重要なメールを誤ってスパム扱いする誤りと、スパムを受信箱に入れてしまう誤りでは、前者の方が深刻です。この格言は、誤りには重みの違いがあり、システム設計者は意図的に片方の誤りを選ぶべきだという洞察を含んでいます。

現代人に教えること

このことわざが現代人に教えてくれるのは、人を評価する権限を持つすべての人への深い戒めです。あなたが誰かの上司であれ、親であれ、教師であれ、あるいは単なる友人であれ、他者を評価する場面は日常的に訪れます。

現代社会では、SNSの普及により誰もが他者を評価し批判する力を持つようになりました。だからこそ、この古い知恵が新しい意味を持ちます。他人の失敗や欠点を指摘する前に、本当に確かな根拠があるのか、自問してみてください。一方で、誰かの善意や努力を目にしたとき、疑うより先に認めてあげることはできないでしょうか。

職場でも家庭でも、人は責められることを恐れて萎縮し、褒められることで花開きます。あなたの一言が、誰かの可能性を閉じることもあれば、開くこともあるのです。疑わしいときこそ、罰することには慎重に、認めることには寛大に。この心がけが、あなたの周りに信頼と希望の輪を広げていくのです。

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