智は目の如し、百歩の外を見て睫を見る能わずの読み方
ちはめのごとし、ひゃっぽのそとをみてまつげをみるあたわず
智は目の如し、百歩の外を見て睫を見る能わずの意味
このことわざは、遠くのことはよく見えるが、身近なことは見落としがちという人間の性質を表しています。他人の欠点や問題点はすぐに気づくのに、自分自身の欠点には気づきにくい。遠い国の出来事や複雑な社会問題については鋭い分析ができるのに、自分の足元にある大切なことを見逃してしまう。そんな矛盾した人間の知性の働きを指摘しています。
使われる場面としては、他人を批判ばかりしている人に自己反省を促すとき、あるいは大きな目標ばかり追いかけて身近な幸せを見失っている人に気づきを与えるときなどです。現代でも、SNSで社会問題について熱心に発言する一方で、家族や身近な人との関係をおろそかにしてしまうような状況に当てはまります。自分に近いものほど客観視が難しいという、普遍的な人間の特性を教えてくれることわざです。
由来・語源
このことわざは、中国の古典思想に由来すると考えられています。「智」という言葉と「目」を対比させる表現は、古代中国の哲学書に見られる思考パターンです。
「百歩の外を見て睫を見る能わず」という表現は、人間の視覚の特性を巧みに利用した比喩です。睫、つまりまつげは目のすぐそばにありながら、自分の目で直接見ることはできません。一方で、百歩も離れた遠くの景色ははっきりと見えます。この生理的な事実を、人間の知性の働き方になぞらえているのです。
智慧を「目」に例えることで、知性もまた視覚と同じような性質を持つことを示唆しています。遠くの物事、つまり自分から離れた他人の問題や社会の出来事については明晰に分析できるのに、自分自身のこと、身近な問題については客観的に見ることが難しいという人間の特性を、見事に言い表しています。
この表現が日本に伝わり、ことわざとして定着した時期は明確ではありませんが、漢文の素養を持つ知識人の間で使われ、やがて広く知られるようになったと推測されます。視覚という誰もが持つ感覚を通じて、抽象的な知性の働きを説明する手法は、時代を超えて人々の共感を得てきたのでしょう。
使用例
- 彼は会社の問題点ばかり指摘するが、智は目の如し、百歩の外を見て睫を見る能わずで、自分の仕事の進め方には無頓着だ
- 世界平和を語る前に、智は目の如し、百歩の外を見て睫を見る能わずというから、まず家族との関係を見直すべきかもしれない
普遍的知恵
人間の認識には不思議な偏りがあります。望遠鏡で遠くの星を観察することはできても、鏡なしには自分の顔を見ることができない。それと同じように、私たちの心の目も、自分から距離のあるものほどよく見え、自分に近いものほど見えにくくなるのです。
なぜこのような性質が人間に備わっているのでしょうか。それは、自分自身を客観視するには、自分という存在から一歩離れる必要があるからです。しかし私たちは常に自分の内側にいて、自分の視点からしか世界を見ることができません。他人の行動は外から観察できますが、自分の行動は内側から経験するしかないのです。
このことわざが長く語り継がれてきたのは、この矛盾が人間関係のあらゆる場面で顔を出すからでしょう。夫婦喧嘩では相手の非ばかりが目につき、職場では同僚の欠点は見えても自分の改善点は見えにくい。親は子どもの問題には敏感でも、自分の育て方の問題には鈍感になりがちです。
先人たちは、この人間の本質的な弱点を見抜いていました。そして、知性が高い人ほど、かえってこの罠に陥りやすいことも理解していたのです。賢い人ほど他者を分析する能力に優れているため、自己分析の必要性に気づきにくくなる。このことわざは、知性そのものの限界を指摘する、深い人間理解から生まれた知恵なのです。
AIが聞いたら
人間の脳は一度に処理できる情報量に厳しい制限があります。認知科学では、注意を向けられる範囲を「スポットライト」に例えます。舞台照明が一箇所を照らすと他が暗くなるように、遠くの複雑な問題に注意を集中すると、自分自身という最も近い対象が暗闇に沈むのです。
さらに興味深いのは、視覚系そのものに構造的な盲点が存在する事実です。網膜の視神経が集まる部分には光を感じる細胞がなく、視野の中に必ず見えない領域があります。ところが私たちは普段それに気づきません。脳が周囲の情報から欠けた部分を自動的に補完してしまうからです。つまり「見えていないことに気づかない」という二重の盲点が生じています。
このことわざが指摘する知性の逆説は、まさにこの神経学的な制約を言い当てています。高度な分析能力を持つ人ほど、その能力を外部に向けて使い切ってしまい、自分の思考プロセス自体を観察する余力がなくなる。メタ認知、つまり自分の認知を認知する作業は、脳にとって極めて高コストな処理なのです。
現代のAI開発でも同じ問題が起きています。複雑な判断ができるほど、なぜその結論に至ったか説明できなくなる。古代中国の思想家は、脳科学もAIもない時代に、この普遍的な認知の限界を見抜いていたのです。
現代人に教えること
このことわざが教えてくれるのは、謙虚さの本質です。あなたがどれほど賢くても、どれほど経験を積んでも、自分自身を完全に客観視することはできません。だからこそ、他人の意見に耳を傾ける姿勢が大切なのです。
現代社会では、情報があふれ、誰もが評論家になれる時代です。世界中の出来事について意見を述べることは簡単ですが、その前に立ち止まって考えてみましょう。自分の足元は見えているでしょうか。家族との関係、職場での振る舞い、日々の小さな選択。遠くを見る目を持つことも大切ですが、時には鏡を手に取って、自分自身を見つめる時間も必要です。
具体的には、定期的に自己反省の時間を持つこと、信頼できる人からフィードバックをもらうこと、日記をつけて自分の行動パターンを客観視することなどが有効です。完璧な自己認識は不可能でも、努力によって少しずつ自分を知ることはできます。遠くを見る知性と、近くを見る謙虚さ。その両方を持つことが、本当の賢さなのかもしれません。


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