心ここに在らざれば視れども見えずの意味・由来・使い方|日本のことわざ解説

ことわざ

心ここに在らざれば視れども見えずの読み方

こころここにあらざればみれどもみえず

心ここに在らざれば視れども見えずの意味

このことわざは、心が他のことに向いていると、目で見ても本当には理解できないという意味です。物理的に目に映っていても、心がそこになければ、その本質や意味を捉えることはできないということを表しています。

たとえば、悩み事を抱えながら本を読んでいても、文字は目に入っているのに内容が頭に入ってこない経験は誰にでもあるでしょう。また、心配事があって人の話を聞いているとき、相手の口は動いているのに何を言っているのか理解できないこともあります。これがまさに「視れども見えず」の状態です。

このことわざは、単に注意散漫を戒めるだけでなく、物事を本当に理解するには心を向けることが不可欠だという深い洞察を含んでいます。現代では、スマートフォンを見ながら会話をしたり、何かをしながら別のことを考えたりする「ながら行動」が増えていますが、このことわざは、真の理解や学びには集中が必要だということを教えてくれています。

由来・語源

このことわざは、中国の古典である「礼記」の「大学」という章に由来すると考えられています。原文では「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」(心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず)という一節があり、この前半部分が日本に伝わって定着したものです。

「大学」は儒教の重要な経典の一つで、人間の修養について説いた書物です。この一節は、学問や修養において集中することの大切さを説く文脈で使われています。心がそこになければ、目で見ても本当の意味では理解できない、耳で聞いても真に聞き取れない、食べても味わえないという、人間の認識の本質を鋭く突いた言葉なのです。

日本では江戸時代に儒学が広まる中で、この言葉も知識人の間で知られるようになりました。特に学問の場において、ただ文字を追うだけでなく、心を込めて学ぶことの重要性を教える言葉として重視されてきました。古典の言葉が、現代まで生き続けているのは、それだけ人間の本質を捉えた普遍的な真理だからでしょう。

豆知識

このことわざの出典である「礼記」の原文には、視覚だけでなく聴覚と味覚についても続きがあります。「聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず」という部分で、心がそこになければ、耳で聞いても理解できず、食べても味わえないと説いています。つまり、人間のあらゆる感覚において、心の在り方が決定的に重要だという包括的な教えなのです。

禅の修行でも「喫茶喫飯」という言葉があり、お茶を飲むときはお茶を飲むことに、ご飯を食べるときはご飯を食べることに集中せよと教えます。これは「心ここに在らざれば」の教えと通じる、今この瞬間に心を向けることの大切さを説いた思想です。

使用例

  • 会議中にずっとスマホが気になって、後で議事録を見たら全然覚えていなかった。まさに心ここに在らざれば視れども見えずだ。
  • 息子の話を聞きながら仕事のことを考えていたら、大事なことを聞き逃してしまった。心ここに在らざれば視れども見えずとはこのことだ。

普遍的知恵

このことわざが示す最も深い真理は、人間の認識というものが単なる感覚器官の働きではなく、心の在り方によって決定されるということです。私たちは目があれば見えると思いがちですが、実は「見る」という行為は、目という器官だけでなく、心という存在全体が関わる営みなのです。

なぜこのことわざが二千年以上も語り継がれてきたのでしょうか。それは、人間が常に心の散漫さと戦ってきたからです。古代中国でも、現代日本でも、人の心は次から次へと別のことに移ろいやすい性質を持っています。悩み、欲望、不安、期待、これらが絶えず心を揺さぶり、今目の前にあるものから心を引き離そうとします。

この人間の本質的な弱さを、先人たちは深く理解していました。だからこそ、単に「集中しなさい」と命令するのではなく、「心がそこになければ、見ても見えない」という事実を静かに示したのです。これは脅しでも説教でもなく、人間の認識の仕組みについての冷静な観察です。

そして同時に、この言葉は希望も含んでいます。心をそこに向けさえすれば、見えるようになるということです。能力の問題ではなく、心の向け方の問題だと教えてくれているのです。

AIが聞いたら

人間の目は毎秒約1000万ビットの視覚情報を受け取っているが、脳が意識的に処理できるのはわずか40ビット程度だと神経科学の研究で分かっている。つまり、目に映っている情報の99.9996%は、脳によって自動的に捨てられているのだ。

この驚異的な情報削減は、脳の視覚野と前頭前野の連携によって行われる。前頭前野が「これに注目しよう」と決めた瞬間、その信号が視覚野に送られ、該当する部分だけが増幅される。たとえば赤い車を探している時、街中の赤い物体だけが急に目立って見えるのはこの仕組みだ。逆に言えば、注意が向いていない情報は物理的に網膜に映っていても、脳内で信号が弱められて意識に上がってこない。

さらに興味深いのは、注意を向けた対象と向けなかった対象では、脳内の神経発火パターンが全く異なることだ。同じ光が目に入っていても、注意の有無で視覚野のニューロンの活動レベルが5倍以上変わるという実験結果もある。

つまり「見る」という行為は、目という受動的なカメラではなく、脳が能動的に選択して構築する現象なのだ。このことわざは、現代の脳科学が明らかにした「注意が現実の知覚を作り出す」という真実を、古代の人々が経験的に見抜いていた証拠と言える。

現代人に教えること

このことわざが現代の私たちに教えてくれるのは、マルチタスクの時代だからこそ、一つのことに心を向ける価値を見直すべきだということです。スマートフォン、SNS、メール、次々と届く通知に囲まれた生活の中で、私たちの心は常にあちこちに引っ張られています。

でも考えてみてください。大切な人との会話、美しい景色、読んでいる本、今やっている仕事。これらを本当に味わい、理解し、楽しむためには、心をそこに向ける必要があります。ただ時間を過ごすのではなく、心を込めて過ごすこと。それが人生を豊かにする鍵なのです。

明日から、一日のうち少しの時間でいいので、一つのことだけに心を向けてみませんか。食事をするなら食事だけ、人と話すなら会話だけ、本を読むなら読書だけ。スマートフォンを置いて、目の前のことに心を在らせてみてください。きっと、今まで見えていなかったものが見えてくるはずです。それは新しい発見であり、深い理解であり、心からの喜びです。あなたの人生は、心の向け方一つで、もっと鮮やかになるのです。

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