是非は道によって賢しの意味・由来・使い方|日本のことわざ解説

ことわざ

是非は道によって賢しの読み方

ぜひはみちによってかしこし

是非は道によって賢しの意味

このことわざは、物事の善悪や正否を判断する際、道理という普遍的な基準に従えば、その答えは自然と明らかになるという意味です。

人は感情や利害関係に左右されて、物事の判断を誤ることがあります。好きな人のすることは正しく見え、嫌いな人のすることは間違って見えてしまう。自分に都合の良い解釈をしてしまう。そんな経験は誰にでもあるでしょう。

しかしこのことわざは、そうした主観的な判断から離れ、「道理」という客観的な基準に立ち返ることの大切さを教えています。道理とは、時代や立場を超えた普遍的な正しさの筋道です。人として守るべき倫理、論理的な整合性、公平さといった基準に照らして考えれば、迷いは晴れ、正しい判断が見えてくるのです。

現代でも、複雑な問題に直面したとき、感情論や利害関係を一旦脇に置き、「これは道理にかなっているか」と問い直すことで、明確な答えが得られることがあります。

由来・語源

このことわざの明確な出典は定かではありませんが、言葉の構成から興味深い考察ができます。

「是非」とは物事の正しさと誤り、善悪を意味する言葉です。「道」は単なる道路ではなく、古来より「道理」「正しい筋道」という深い意味を持っていました。儒教思想では「道」は人が従うべき普遍的な原理を表し、日本でもこの考え方が広く受け入れられてきました。そして「賢し」は「明らかである」「はっきりする」という意味の古語です。

この三つの要素を組み合わせると、「正誤や善悪の判断は、道理という確かな基準に照らせば自ずと明らかになる」という構造が見えてきます。おそらく儒教的な思想の影響を受けながら、日本で形成されたことわざと考えられています。

注目すべきは「賢し」という言葉の選択です。現代では「賢い」は人の知能を表しますが、古語では「物事が明瞭である」という状態を表す言葉でした。つまりこのことわざは、道理に従えば判断する人が賢くなるのではなく、判断そのものが明瞭になると説いているのです。人間の主観的な賢さではなく、客観的な明瞭さを重視する、実に論理的な表現だと言えるでしょう。

使用例

  • 会議で意見が対立したが、是非は道によって賢しというように、法律の趣旨に立ち返って考えたら答えは明白だった
  • 感情的になりそうだったけれど、是非は道によって賢しと自分に言い聞かせて、公平な視点で判断することにした

普遍的知恵

人間は感情の生き物です。好き嫌い、損得、プライド、恐れ。私たちの判断は、こうした心の動きに常に揺さぶられています。だからこそ古の人々は、「道理」という揺るがない基準の存在を見出し、それに立ち返ることの重要性を説いたのでしょう。

このことわざが語る深い真理は、正しさは人間が作り出すものではなく、発見するものだということです。私たちの感情や都合とは無関係に、物事には本来の筋道があり、それに従えば答えは自ずと明らかになる。これは人間の傲慢さを戒め、謙虚さを促す知恵でもあります。

興味深いのは、このことわざが判断の「方法」を示している点です。「正しくあれ」という結果を求めるのではなく、「道理に従って考えよ」という過程を示している。結果は保証できなくても、正しい方法を踏めば正しい答えに至れる。この信頼こそが、人間社会を支えてきた基盤ではないでしょうか。

また、「賢し」という言葉の選択も示唆的です。道理に従うことで得られるのは、特別な知恵や才能ではなく、「明瞭さ」なのです。誰もが道理という基準を用いれば、同じ明瞭な答えに到達できる。これは民主的で平等な思想でもあります。真理は一部の賢者だけのものではなく、道理に従う者すべてに開かれているのです。

AIが聞いたら

デジタル画像を考えてみよう。同じ写真データでも、JPEGで開けば圧縮された画像、RAWで開けば高精細な画像、テキストエディタで開けば意味不明な文字列になる。情報そのものは変わっていないのに、どの「道具(コーデック)」で読み取るかで、見えるものが完全に変わってしまう。これが参照フレーム依存性だ。

面白いのは、どれが「正しい姿」かという問いに答えがないことだ。JPEGが間違いでRAWが正解というわけではない。用途によって適切な形式が違うだけだ。つまり情報理論では、データの「是非」は評価基準なしには存在できない。このことわざが言う構造と完全に一致している。

さらに量子力学の観測者問題とも似ている。電子の位置を測定する装置を使えば位置が分かるが運動量は不明になり、運動量を測る装置なら逆になる。どちらの装置(道)を選ぶかで、得られる答え(是非)が根本的に変わる。観測装置という参照フレームを指定しない限り、電子の状態は確定しない。

古代の人々は、真理が観測システムに依存するという現代物理学や情報理論の核心を、経験的に見抜いていた。「絶対的な正しさ」を求める前に、まず「どの基準で測っているのか」を明確にせよという指摘は、科学的思考の出発点そのものだ。

現代人に教えること

現代は情報があふれ、様々な価値観が交錯する時代です。SNSでは同じ出来事に対して真逆の意見が飛び交い、何が正しいのか分からなくなることもあるでしょう。

そんなとき、このことわざはあなたに大切な指針を示してくれます。それは、感情や雰囲気に流されず、「これは道理にかなっているか」と問い直す習慣です。

道理とは難しいものではありません。論理的に筋が通っているか、公平か、人としての倫理にかなっているか。こうした基本的な問いに立ち返るだけで、見えてくるものがあります。

特に大切なのは、自分に都合の良い判断をしそうなときこそ、この視点を持つことです。「自分が逆の立場だったらどう思うか」「これを子どもに説明できるか」。そう問いかけることで、道理という基準が見えてきます。

正しい判断は、特別な才能がなくてもできます。道理という確かな基準に従って考える。それだけで、あなたの判断は明瞭になり、自信を持って行動できるようになるのです。迷ったときこそ、この知恵を思い出してください。

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